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守屋啓吾の歴史A

6畳一間の風呂なしアパート〜大学時代〜

阪大に6倍もの倍率を運良く通り、入学して見つけたアパートは西日しか当らない6畳一間の風呂なしアパート。 ここにこの後7年間住むことになる。貧乏生活ではあったが将来に対する明るい希望があったので苦には思わなかった。
クラブ活動は男声合唱団と空手道部を選んだ。合唱は中学の時少ししていたのと「合コンが一番多い」という誘い言葉で。空手はもちろんあこがれていたブルースリーや大山倍達の影響。
男声合唱団での2年間は本当に勉強になった。ここには個性的で優秀な人が多く、部長選挙の際の応援演説や文集の出来の秀逸さには舌を巻いた。指揮者のカリスマ性や才能にも驚いた。
さて空手の方であるがもともと何も運動もしてこなかったので、体力も運動神経もない。
きつい練習とどんな状況でも相手に向かっていかなければならない経験は繊細な少年のこころをかなりたくましくしてくれた。歯や骨を折ることも多々あり当然のことながら少々のことは気にならなくなった。


医局時代

晴れて大学を卒業して入局先に選んだのは「第一補綴科」クラウン・ブリッジ科。
一番ぼくにとって「歯医者らしい」イメージがあったからだが・・、入局してすぐにA先生にこう言われてしまった。
「君は相当努力しなければだめだね」学生時代の成績があまり良くなかったためだ

昼間は大学、派遣先で診療し、夜は自分で見つけたバイト先で診療し仕事の合間に補綴物を作り、夜は雑務をするという生活。このころはローソンの上のワンルームマンションに暮らしていたのだがローソンの弁当ばかり食べる日々が続いていた。
夜のバイト先の先生は僕と同い年なのだが、お父さんが在学中に亡くなり後を継ぐために方々見学しながら優秀な先生方のノウハウを吸収して開業された方で臨床のいろんなことを教えていただいた。
ここで教わったことは今でも役に立つことが多くとても感謝している。


インプラントとの出会い〜医局を1年過ぎた頃〜

さて医局で1年過ぎたころ、先輩のK原先生が「研究室を変わったらどうだろうか?」という提案をしてくれた。
そのころどちらかというとマイナーな研究室だったインプラントの方へ変わることを示唆してくれたのだ。
このK原先生にもとても感謝している。彼の助言がどれほど大きな意味を持っていたかは計り知れない。
インプラント合金の生体適合性について研究し、これは今でも自分の財産となっている。

そうこうするうちに個人的な事情で岡山に帰らなくてはならなくなった。
大学を辞めて帰ってきたぼくを受け入れてくれたのは川崎医大の口腔外科。できることは何でもやらせていただいた。
同僚や先輩はとてもユニークで優秀な人が多く刺激的な環境であった。このときの同僚は開業してもみな大成功している。 私生活でも充実しており忘れられない1年間となった。


自信満々でいよいよ開業


さて開業ということで実は自信満々。
「患者が来すぎたらどうしよう?」というぐらいではあったが、さすがにその心配は無用であった。
スタッフは3人(衛生士1名、受付1名、技工士兼助手1名)でスタートしたのだが、1年後には一人を除いて辞めてしまった。最初の数年はマネージメントの面でもいろいろ勉強させられることが起きた。

少し落ち着いたころ一度も行ったことがなかった海外に「院内旅行」としてハワイに行くことにした。
「日本人ばかりの観光地」としてあまり何も期待していなかったのだがこれは僕にとっては衝撃的な経験でこの後何度も行くことになる。


分院展開について

30歳で青年会議所に入りこれまた刺激的な生活を送ることになる。当時バブルの余韻が残っていたこともあり、自分が働かないとお金にならない歯医者とは違いいわゆる権利的な収入を持ちゴルフ三昧の人々を見るにつけ何か自分にもできないだろうかと考えるようになった。
そのひとつが分院展開。
分院のきっかけになったのは知り合いからの一言だった。彼が所有するビルの1階のテナントが空いたので「歯医者でもどう?」と提案されたのだ。

渡辺先生、つまようじ法との出会い
さてその前に忘れてはいけないのが予防歯科の渡辺先生との出会いだ。
たまたま阪大の同窓会でお話を聞き、「これからは予防が大事」とは思っていたこともあって、渡辺先生のお話にはとても興味をそそられた。
精一杯精密な治療をしてもちゃんとメンテナンスしないと10年後には悲惨なことになっている。そんな経験が予防というものに向かわせたのだ。渡辺先生から聞いた予防の話はある意味衝撃的だった。
「歯磨きで虫歯は防げない」古今東西さまざまな介入試験が行われたがフッ素抜きの歯磨き指導で虫歯が減ったという事実はないのだ。
渡辺先生からは「岡山には岡大もPMJもあるが倉敷には予防歯科センターがない。君が作ったらどうだ?」
という話を聞き、これが先ほどの分院の話と結びついたのだ。


分院誕生

こうして誕生した「スマイル歯科クリニック」は順調とは言えない滑り出しではあったが2年ほどで何とか軌道に乗ることができた。
その後いい場所を見つけては数年に1件ずつ新しい医院を展開していった。

各分院はそれぞれ僕にとって実験的な医院で、それぞれ違ったコンセプトで作られたものだ。その場所や顧客層また院長、スタッフのキャラクターによって自然とそれぞれの特徴を出したものになってきている。


中国

趣味の太極拳の旅行などで2001年、2002年に中国を見て回ったことは大きな刺激になった。
急激な勢いで発展する中国。その中で歯科はまだまだ遅れている分野。
これは大きなビジネスチャンスと思い、いろいろ調べ始めた。

何度も渡航を繰り返し、思いのほかに時間はかかったが何とか内装もでき設備も設置できた。ところが、開設の許可が下りない。大変な時間と労力とお金を費やしたのだが、上海の医院開設はまずは失敗となった。
ただ機材は残っているのでこれをどうしたものかと思っていたのだが浦東で新しい医院を作るという計画がありここに乗せてもらうことになった。それが明徳五感科医院だ。
ここで紆余曲折はあったが4年の契約であったので期間中は何とかがんばり、ようやく満了となって契約を解除し現在(2010年2月)の金茂ビルのKOWA歯科に移った。 今年3月からはまた新しい常勤のドクターが入りこれからさらに充実していく予定だ。


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